灯油
身体を動かすこともためらうほど、寒くなりました。
ガソリンスタンドまで灯油を買いに行くと、
寒空の下、店員さんたちががんばって働いていました。
お釣りをいただくときに差し出された手は、真っ黒でした。
油や煤が染み込んだ、働く手です。
ストーブを炊いて、にわかにあたたかくなった部屋。
有り難い、と思いました。
夕日
何年も前のことです。
締切に追われて仕事をしていたときに、同僚の女性が席に近づいてきました。
「いま、ちょっとお時間ありますか?」
「手が離せないのですが、お急ぎですか?」
「今じゃないと、だめなんです」
こうしたやりとりの後、ちょっと面倒くさいな、と思いながら、手を引かれて階段の踊り場に行きました。
窓の外に、大きな夕日がぽっかりと浮かんでいました。
時の流れが、一瞬、止まったようでした。
「これを見せたかったんです」
書類に埋もれたモノトーンの日々のなか、差し色のような同僚の笑顔が思い出されて、懐かしくなりました。
雪の朝
この冬はじめての、まとまった雪となりました。
昔、古文の授業で習った、『徒然草』の段を思い出しました。
雪のおもしろう降りたりし朝
人のがり言ふべきことありて文をやるとて
雪のこと何とも言はざりし返事に
この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの
ひがひがしからむ人の仰せらるること
聞き入るべきかは
かへすがへす口惜しき御心なり
と言ひたりしこそをかしかりしか
今は亡き人なればかばかりのことも忘れがたし
〔雪の朝に用事があって手紙を書いた相手から、「全く雪のことに触れないような、情緒を解さない手紙を書く人の用事をきくことはできない。つくづく残念な御心である」と言ってよこしたことは、心に残ることだった。今は故人となった方だから、こうしたやりとりも余計に忘れ難い。
(私訳)〕
長い間、手紙に苦言を呈していたのは、作者である吉田兼好のほうだと思い込んでいました。
また、手紙には時候の挨拶を入れる、というマナーを示した段だと理解していました。
改めて読むと、故人を偲ぶ文章だったことに気づきます。
かつてと同じ雪の降る朝に、無粋な自分を手紙で諭してくれた人を、懐かしく思い出して書かれた文かと想像します。
若い兼好は、相手の返事に多少なりとも反発したかもしれません。
年齢を重ね、ようやく故人の心境を解するようになり、慕わしく思えたのかもしれません。
かくいう私も、若い頃と今とでは、作品の見方や味わい方に変化があるわけです。
降り積もる雪、重ねる年月。
変わりゆく景色に、変わりゆく心を、眺める朝です。
自分
「私」や「自分」という一人称を、どれだけ長時間使わないで会話が成立するか、というゲームをしたことがあります。
確か、1分も持たなかったと記憶しています。
これまでに書いた文章を見返しても、最頻出の言葉は、やはり「私」や「自分」です。
これだけ一人称で埋め尽くされている心で、正しく物を見たり発言したりするのが、至難のわざであることは明白です。
せめて、そのことに自覚的であろうと思います。