文楽

ただの人形劇だと思っていました。

ところが、生きているとしか思えない人形の表情や、哀切な太夫の語り、掻き鳴らされる三味線の音に、心を揺さぶられました。

はじめは、背後の人形遣いも共に見ているのですが、次第に気配を消し、最後は人形しか目に入らなくなりました。

人間も、この人形のようなものかもしれません。
見えている私たちを動かす黒子のような存在。
それを、無意識と呼ぶのか、魂と呼ぶのか。

心をわしづかみにされた、初めての文楽でした。

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灯油

身体を動かすこともためらうほど、寒くなりました。

ガソリンスタンドまで灯油を買いに行くと、
寒空の下、店員さんたちががんばって働いていました。

お釣りをいただくときに差し出された手は、真っ黒でした。
油や煤が染み込んだ、働く手です。

ストーブを炊いて、にわかにあたたかくなった部屋。
有り難い、と思いました。

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夕日

何年も前のことです。

締切に追われて仕事をしていたときに、同僚の女性が席に近づいてきました。

 「いま、ちょっとお時間ありますか?」
 「手が離せないのですが、お急ぎですか?」
 「今じゃないと、だめなんです」 

こうしたやりとりの後、ちょっと面倒くさいな、と思いながら、手を引かれて階段の踊り場に行きました。

窓の外に、大きな夕日がぽっかりと浮かんでいました。
時の流れが、一瞬、止まったようでした。

 「これを見せたかったんです」

書類に埋もれたモノトーンの日々のなか、差し色のような同僚の笑顔が思い出されて、懐かしくなりました。

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微笑

観心寺如意輪観音
年に二日間、葉桜の頃に開扉され、お姿を拝むことができます。
仏さまに性別は無いそうですが、ぽってりとふくらんだ紅い唇が妖艶で、ほのかな色気さえ感じる優美なお姿に、時が経つのを忘れて見惚れてしまいます。

遠目だと、唇をかすかに開いて微笑んでいらっしゃるように見えます。
ところが写真で見ると、唇を固く引き結び、少しも笑ってはいません。

聞けば、右手を頬に当てているお姿は、どうしたら私たち悩み多き衆生を救えるかを、考えているところだそうです。

無心にほほえんでいるようにしか見えないのに、いつでも人の幸福だけを一生懸命に考えている。

この仏さまも、わたしの理想です。

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雪の朝

この冬はじめての、まとまった雪となりました。

昔、古文の授業で習った、『徒然草』の段を思い出しました。
  雪のおもしろう降りたりし朝
  人のがり言ふべきことありて文をやるとて
  雪のこと何とも言はざりし返事に
  この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの
  ひがひがしからむ人の仰せらるること
  聞き入るべきかは
  かへすがへす口惜しき御心なり 
  と言ひたりしこそをかしかりしか
  今は亡き人なればかばかりのことも忘れがたし

〔雪の朝に用事があって手紙を書いた相手から、「全く雪のことに触れないような、情緒を解さない手紙を書く人の用事をきくことはできない。つくづく残念な御心である」と言ってよこしたことは、心に残ることだった。今は故人となった方だから、こうしたやりとりも余計に忘れ難い。
(私訳)〕

長い間、手紙に苦言を呈していたのは、作者である吉田兼好のほうだと思い込んでいました。
また、手紙には時候の挨拶を入れる、というマナーを示した段だと理解していました。

改めて読むと、故人を偲ぶ文章だったことに気づきます。
かつてと同じ雪の降る朝に、無粋な自分を手紙で諭してくれた人を、懐かしく思い出して書かれた文かと想像します。

若い兼好は、相手の返事に多少なりとも反発したかもしれません。
年齢を重ね、ようやく故人の心境を解するようになり、慕わしく思えたのかもしれません。

かくいう私も、若い頃と今とでは、作品の見方や味わい方に変化があるわけです。

降り積もる雪、重ねる年月。
変わりゆく景色に、変わりゆく心を、眺める朝です。

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自分

「私」や「自分」という一人称を、どれだけ長時間使わないで会話が成立するか、というゲームをしたことがあります。
確か、1分も持たなかったと記憶しています。

これまでに書いた文章を見返しても、最頻出の言葉は、やはり「私」や「自分」です。

これだけ一人称で埋め尽くされている心で、正しく物を見たり発言したりするのが、至難のわざであることは明白です。
せめて、そのことに自覚的であろうと思います。
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